終戦の直前、串木野の街は2度の空襲で黒焦げの死体が転がった 撃たれた父は、家族を見届けて亡くなった。14歳の私は感情をなくしていた

2025/07/21 10:00
父・栄助さんの遺影を手に「苦しんでいる父に何もしてやれなかった」と振り返る神村勲さん=いちき串木野市の神村学園
父・栄助さんの遺影を手に「苦しんでいる父に何もしてやれなかった」と振り返る神村勲さん=いちき串木野市の神村学園
■神村勲さん(80)いちき串木野市下名

 私は80年間、いちき串木野市で過ごし、戦前から戦後を生き抜いてきた。その人生の中で忘れられないのは、1945(昭和20)年の8月9、12日の2日間だ。旧串木野の街のほとんどが焼失する空襲があった。

 当時14歳。その日の午前7時ごろ始まった空襲は、爆弾と焼夷(しょうい)弾の嵐で午後3時ごろまで続いた。まさに悪夢としかいいようがなく、地獄絵図だった。

 道路の中央には黒こげの死体が転がり、街中に掘られた防空壕(ごう)も全滅状態。電柱や電線は道路をふさぎ、無人の街は焦土と化していた。爆弾で約30メートルの大穴があいたところもあった。普段から練習していたバケツリレーや消火訓練なんて、まったく役に立たず、「一体、あの訓練は何だったんだ」とむなしくなった。

 私の住んでいた島平地区では、みんな山手の仮設疎開住宅で生活していた。それでも、数百人の人命が奪われた。自宅は12日の空襲で焼けた。

 父は警防団員で自宅にいた。朝に始まった空襲を受けて、飼っていた牛を小屋から外に出して、家に戻ろうとしたところ、機銃掃射を浴びた。左大腿(だいたい)部を貫通していた。赤い肉が盛り上がり、血止めができなかったようだ。

 父は必死で防空壕に逃げ込んだ。後で「このままでは死ねない、ひと目家族に会おうと必死だった」と聞いた。しばらくして外に出て、サツマイモや里イモが植えられている道路に出て助けを待っていたらしい。

 昼過ぎに「(父の)栄助さんがやられて、里イモ畑に倒れている」と近所の人が教えてくれた。母とまだ火の手が上がる中を夢中で走って迎えにいったのを覚えている。

 知らない人たちが父を戸板に乗せ、運んでくれた。駆け寄って声をかけると、父は安堵(あんど)の表情を浮かべ、途端に気を失った。父を疎開先の家に運んでいたが、途中で大爆発が起きた。近くの自動車会社にあった石油缶に引火したようだった。気がついたら、みんな父を乗せた戸板を放り出して、訓練で受けた通り道路脇の溝に身を潜めた。

 極限の状況では、人はみな自分の命が最優先だった。今、考えると手負いの父を放り出して逃げたりするなんて。戦争は人を狂わせる、と思う。

 ひとまず父は無事だった。再び戸板に乗せて運んだが、終戦前日の14日の朝、息を引き取った。医者にもみせられず、赤チンキを塗布するだけの見殺しに近い状況だった。

 暑い8月の死体はすぐに腐臭を放ち始めた。そのにおいは10年くらい鼻について離れなかった。でも、父が死んでも不思議と悲しくも、怖くもなかった。自分もあしたには、米軍にやられて死ぬだろう、と思っていたから。戦争は、本当にやってはいけない。人の感情を鈍らせ、人間が人間でなくなってしまう。このことだけは、若い人に伝えていきたい。

(2011年9月6日付紙面掲載)

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