自宅で配湯サービスを利用する原口貞輝さん。風呂場の蛇口をひねると、勢いよく温泉水が流れ出した=指宿市西方
鹿児島県指宿市や民間事業者が個人宅などに温泉を供給する配湯事業が、開始から半世紀以上を経て岐路に立たされている。過疎化に伴う利用世帯数の減少や修繕費の高騰が経営を圧迫し、後継者不在で廃業する例も後を絶たない。「湯のまち」ならではの文化を守るため、料金改定や事業承継に向けた動きも進みつつある。
風呂場の蛇口から、とろりとした湯が勢いよく流れ出す。指宿市西方の原口貞輝さん(69)は17年前、東京のIT企業を退職してこの地に家を建てた。決め手となったのが「自宅でいつでも温泉に入れる」こと。湯船に肩までつかり、あふれ出す水音を聞いている瞬間が「何とも言えず至福」としみじみ語る。
市内には1000カ所を超える泉源があり、古くから家庭で温泉を楽しむ文化が根付いてきた。市や民間の事業者が持つ泉源から地下を巡る配管を通して湯を送り、利用者は浴槽の広さや人数に応じて月額料金を支払う仕組み。配湯可能なエリアは限られるが、一部の公営住宅でも楽しめる。
指宿市誌によると、市営の配湯事業が始まったのは1937(昭和12)年。戦後は高度経済成長などにより民間の参入が相次ぎ、82年度の市の調査では約3840世帯が市営や民間の配湯事業を利用していた。近年は利用者の高齢化と人口減少が進み、2014年度の配湯戸数は約2700世帯、24年度には約1800世帯にとどまった。
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中には民間配湯業者が撤退し、物理的に供給を受けられなくなった地域もある。かつて市内には約30の配湯業者が存在したが、現在は20ほどに縮小。市が24年度に実施したアンケートでは、回答した16事業者の約半数が事業継続に後ろ向きな姿勢を示した。
理由の一つが維持費用の問題だ。地中に張り巡らせた配管には湯の花などが付着しやすく、定期的なメンテナンスが欠かせない。たとえ一部でも交換や修繕が必要となれば、業者への委託料や道路の掘削で数十万円規模の出費になるという。湯を送る電気代や資材も高騰し、老朽化した施設を更新することになると負担はより大きくなる。
長年個人や家族単位で配湯を担ってきた事業主が高齢となり、跡継ぎが見つからず廃業する例も少なくない。市温泉配湯業組合の組合長で、市議の新宮領實さん(72)は「利用者は減り、どこもメンテナンス費の元を取るのも難しい状況だ」と指摘。その上で「このまま配湯事業が縮小すれば、指宿をアピールできる魅力の一つが失われる」と危機感を募らせる。
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最近では、利用者の減少とコスト増による負担を使用料に転嫁する動きもある。指宿市は4月から市営の温泉使用料を家庭用で20%引き上げ、基本料金を月4200円とした。増収分を老朽化施設の更新費用などに充て、安定的な事業継続につなげる。新宮領さんも以前、約2000万円かけて設備を更新した際に値上げに踏み切っており「きちんと説明すれば利用者の理解は得られる」と語る。
うまく事業承継ができた事例もある。同市で給排水設備業を営む大坪泰史さん(51)は1年半前、高齢になり廃業を考えていた事業主から引き継いだ。
長年、本業でポンプや配管の保全を請け負ってきた経験から部品交換の目安などが分かり、自社で対応できる点も決断を後押しした。
引き継いでからは「昔からの知り合いに『いい湯をありがとう』と言ってもらえるのがうれしい。やって良かった」と大坪さん。一方で配湯業者によっては、大規模な修繕や設備の更新がすぐに必要で、事業承継の足かせとなっているケースもあるとして「設備投資などに助成制度などがあれば、事業継続や承継の後押しにもなるのではないか」と期待した。
■湯の恵みで観葉植物すくすく 「地球に優しい」
指宿市では、豊富な湯の恵みを浴用以外にさまざまな産業で活用している。その代表例が、全国有数の規模を誇る観葉植物の栽培だ。ハウス内に巡らせた配管に温泉水を流すことで、冬場も暖房機器を使わず加温することができる。
同市では戦前から、鹿児島高等農林学校(現鹿児島大学農学部)の指宿植物試験場で観葉植物の調査研究が行われてきた。生産が本格化したのは1950年代以降。それまでは小ナスやメロン、キュウリの促成栽培が盛んだったが、戦後の経済復興で生活様式の欧米化が進み、観葉植物の需要が高まった。
同市西方に1978(昭和53)年に完成した観葉植物団地「グリーンファーム」では、現在も4軒の農家が温泉熱を利用した加温を行う。
祖父の代から続く園芸場で働く鎌ケ迫柊馬さん(34)もその一人。温泉熱は、細かい温度設定ができないなどのデメリットもあるが「冬場の燃料代が抑えられるのはありがたい。何よりエコで地球に優しい」と鎌ケ迫さんは強調する。
市内にはほかに、マンゴーなどの熱帯果樹の栽培で温泉を利用する生産者もいる。農産物にとどまらず、ウナギやバナメイエビの養殖で水温調節に活用する例もある。温泉熱利用について市は「カーボンニュートラルを進める中で将来性のある分野であり、新たな特産品の誕生にも期待したい」としている。