日本軍機に撃墜され、当時の百引村(現鹿屋市輝北)に落ちた米軍爆撃機B29の機銃=鹿屋市輝北の歴史民俗資料館
80年前のこの時期、全国の都市が米軍の空襲にさらされていた。鹿児島県内も例外ではない。特に4月中旬から1カ月間は優先順位の高い目標とされ、まず陸海軍の飛行場が狙われた。沖縄近海に展開する艦船への航空特攻に苦しむ米軍が、特攻機が出撃する拠点の無力化を急いだからだ。軍事施設を標的とする「精密爆撃」は、やがて一般市民の巻き添えも織り込んだ「無差別爆撃」に変容していった。
鹿児島市伊敷4丁目の下京鶴子さん(91)は、鹿屋市輝北町下百引で生まれ育った。「その日は当時の天皇誕生日『天長節』だったから、日付をはっきり覚えている」という。1945(昭和20)年4月29日午前、米軍のB29爆撃機が地元に墜落してきた日だ。
平南尋常小学校6年生だった下京さんは空襲警報を聞き、妹と弟を連れて防空壕(ごう)に入った。見上げるとB29の編隊が通過していく。日本軍機らしい機影も見える。自宅の屋根のすぐ上で空中戦が始まったように感じた。1機のB29が編隊から離れ、煙を吐いて落ち始めた。
「自分のいるところに落ちてくると思って縮み上がった」。だが、墜落現場は4キロほど北西の上百引唐鎌集落の畑。午後、見に行くと驚くほど大勢の人が集まっていた。辺り一帯焼け焦げて、とにかく異臭がひどい。機体が突っ込んだ場所の地面が深くえぐれていた。
搭乗員はほとんど黒焦げの状態。地域の人が埋葬し、十字架を立てた。終戦後、鹿屋に進駐した米軍が遺体を回収に来た。
■マリアナから飛来
輝北に落ちたB29は、サイパン島の米軍飛行場を29日午前0時過ぎに23機で離陸した第73航空団の所属だった。特攻基地だった都城市の陸軍飛行場を爆撃する命令を受けていた。
爆弾を落として反転し、9機編隊で帰途に就いたところを鹿屋市の海軍航空基地から出撃した戦闘機「雷電」1機の攻撃を受けた。米軍資料には午前7時45分ごろ撃墜され、搭乗員11人全員が戦死したとある。
2001年に当時の輝北町教育委員会が発行した冊子「恩讐(おんしゅう)を超えて」に、この雷電の操縦士の手記が掲載されている。B29の墜落を見届けた後、空襲で滑走路が穴だらけの鹿屋基地に着陸して機体を掩体(えんたい)壕に隠したものの、その日のうちに爆撃を受けて愛機は残骸になった。操縦士は海軍が短期間で搭乗員を養成するために制度化した乙種飛行予科練習生(特)=特乙=1期生。18歳の若者だった。
1945年3月に沖縄への本格的な攻撃を始めた米軍に対し、日本軍が対抗策の柱に据えたのが航空特攻だ。沖縄本島での地上戦を艦砲射撃で支援する米艦船に対し、特攻機が連日体当たり攻撃していた。執拗(しつよう)に「自殺攻撃」を試みる日本軍機を目の当たりにして、精神的なダメージを受ける米兵は多かった。
米軍は飛来する特攻機を撃ち落とすだけでなく、その出撃拠点である九州南部の各飛行場をたたく必要に迫られた。グアム、サイパン、テニアンの各島からなるマリアナ諸島に築いた飛行場に配備した最新鋭大型爆撃機B29を投入し、特攻基地の攻撃に踏み切った。
県内への第一撃は4月8日だ。マリアナ基地B29部隊の作戦任務の記録を分析した「日本空襲の全容」(小山仁示訳・東方出版)によると同日、第73、313の両航空団が合計53機を出撃させた。目標は鹿屋飛行場、鹿児島市街地、出水飛行場、鹿屋東飛行場、国分飛行場とある。
九州や四国の飛行場は、4月中旬から5月中旬にかけて計約100回もの反復攻撃を受けた。
■拡大していく目標
マリアナ基地のB29による日本本土への本格的空爆が始まったのは、44年秋だ。11月24日、111機で東京の中島飛行機武蔵製作所を狙った。戦闘機のエンジンを造っていた国内屈指の軍需工場だ。B29を改造したF13写真偵察機を事前に飛ばし、綿密に情報収集した上での攻撃だった。
この時期、米軍が理念としたのは軍事関連施設などの目標だけを攻撃する「精密爆撃」だ。第1次世界大戦後に事実上の国際規範として定着していたハーグ法律家委員会による「空戦規則」案の理念に沿って、非戦闘員の殺傷を避ける基本方針だった。
だが、ピンポイント爆撃は技術的に難しい。すぐに市民の巻き添えをいとわなくなり、生産施設に隣接する一般市民の居住地域も攻撃対象に含む「地域爆撃」に転換していった。
ついには日本本土決戦も視野に国民の戦意をくじくため、事実上の「無差別爆撃」に踏み切る。45年1月には日本の木造家屋を効率的に焼き払うために開発した新型焼夷(しょうい)弾を積極的に使い始め、3月10日には東京大空襲で10万人(推定)を殺りくした。
東京や大阪、名古屋などの大都市を襲う無差別爆撃は、地方都市にも拡大していく。中小都市市街地に対する焼夷弾攻撃で最初の目標になったのは、6月17日の鹿児島市だ。人道を意識した当初の理念は、跡形もなかった。
■日本も非人道爆撃
日本全土を襲った空襲の犠牲者は、40万人を超える。米軍の非人道性や倫理観の欠如に疑いはない。
ただ、これに先立つ38年から43年の間、日本軍も中国の重慶や周辺都市を組織的、継続的に爆撃した事実がある。海軍鹿屋基地に所属する陸上攻撃機部隊も重要な一翼を担った。
39年5月3、4日の重慶市街地集中攻撃だけで4000人の死者を出した。日本の軍事目標主義の主張は説得力を欠く。この日本軍の行為が、米軍側の無差別爆撃へのためらいを薄れさせたとの指摘もある。
●B29の墜落現場、殺気立つ住民
「毎朝のように南からやって来て上空を通過し、数時間後に帰っていった」。小学6年生だった下京鶴子さん(91)にとって、80年前の春から夏、鹿屋市輝北の上空を通過するB29の編隊は見慣れた光景だった。
4月29日、墜落現場に駆け付けた時、畑に突き刺さった巨体の恐ろしさに足がすくんだ。「お前たっが、おいげんお父さんを殺したたいが(お前たちが、うちのお父さんを殺したんだ)」。女性の声が響いた。搭乗員の遺体を竹やりで突こうとしている。日本刀や鎌を手にした人もいて、殺気立っていたという。
日本本土空襲で、合計485機のB29が撃墜されたとされる。住民による生存搭乗員の殺害や、遺体が損壊された墜落現場もあった。だが、輝北では同様のことは起きなかった。群衆の中に「こうなれば敵も味方もない」「この人たちも親も家族もいるだろう」と自制を促す人がいて、人々はわれに返ったと伝わる。
(2025年6月29日紙面掲載)