最新鋭機「紫電改」を配備しても物量と性能差は歴然 日本は絶望的な防空戦闘を続けるしかなかった

2025/07/28 13:33
1979年に愛媛県愛南町沖で引き揚げられ、同町の施設に展示されている紫電改。343空所属機の可能性が高い(紫電改展示館提供)
1979年に愛媛県愛南町沖で引き揚げられ、同町の施設に展示されている紫電改。343空所属機の可能性が高い(紫電改展示館提供)
 マリアナ基地を拠点にした米軍の大型爆撃機B29による日本本土への無差別爆撃が本格化したのは、1945(昭和20)年3月10日以降だ。九州近海に展開した空母の艦載機や、沖縄に進出した陸軍航空部隊の所属機も加わり、奄美や九州への爆撃や機銃掃射を激化させていった。日本軍は最新鋭戦闘機部隊を鹿児島県内の飛行場に進出させて防空態勢を強化したが、補給の物量差は埋まらず、絶望的な抗戦を続けるしかなかった。

 45年4月初旬、鹿屋市の海軍航空基地に第343航空隊(343空)が進出してきた。運用が始まったばかりの戦闘機「紫電改」を操る精鋭部隊だ。

 アジア・太平洋戦争での日本海軍の主力戦闘機は、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)だった。40年に制式採用され、日本の戦闘機で最多の1万機以上が造られた。当初は米英軍機を上回る空戦性能を発揮して「世界最強」といわれ、国民の戦意を高揚させた。

 だが、41年の国民総生産(GNP)を比較すれば、米国は日本の11.83倍。兵器の開発スピードも量産能力も、日本を圧倒していた。大戦中期以降、ゼロ戦を上回る性能の戦闘機を次々と前線配備した。44年5月に登場したB29爆撃機は空気の薄い高度1万メートルでも高速飛行が可能で、防弾性能にも優れる。高高度では十分に性能を発揮できないゼロ戦で食い止めるのは極めて難しかった。

 米軍機と互角に渡り合える高出力戦闘機の登場を待ち望んだ海軍にとって、紫電改は切り札ともいえる存在だった。

 343空を創設して司令に収まったのは、広島県出身で海軍兵学校(海兵)52期の源田実・大本営参謀だ。41年の真珠湾攻撃の立案や訓練に携わり、勝利をもたらした立役者として海軍内で存在感を放っていた。発言力を生かして最新鋭機を集中配備させ、他飛行隊からエース級の操縦士を引き抜いた。航空戦の劣勢をはね返して戦局を転換する役割を自負した。

■新機軸戦術で迎撃

 44年暮れに編成された343空は、愛媛県の松山基地を拠点に選んだ。無線電話を活用した相互連携、編隊による組織的な空戦を重視し、日本の航空隊としては新機軸の戦術を磨いた。

 初陣は45年3月19日。四国の南方沖や九州西方沖に陣取った米空母を発進して広島県の呉軍港などを狙った300機余りの艦載機を、松山上空付近で迎え撃った。56機で出撃して52機を撃墜し、味方の損失は16機。米軍機に引けを取らない手応えを得た空戦だった。

 鹿屋基地への進出は、南西諸島の制空権を取り戻し、特攻機の進路を切り開く目的があった。第5航空艦隊の司令部が置かれた鹿屋は手狭で、4月17日には第一国分基地(現在の霧島市、陸上自衛隊国分駐屯地付近)に移った。

 343空は301、407、701の三つの戦闘飛行隊で構成された。このうち407飛行隊を率いたのが、神奈川県出身で海兵69期の林喜重隊長=当時(24)=だ。343空の編成直前には出水市の出水基地で訓練し、鹿児島の空はなじみ深かった。

■鹿児島上空の空戦

 80年前の4月は、沖縄で住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられていた時期だ。鹿児島県内の陸海軍飛行場からは連日、沖縄近海の米艦船を目標に特攻機が出撃していた。343空は特攻には参加せず、制空戦による特攻作戦支援や本土防空に専念した。

 米軍の九州南部への激しい空爆の狙いは、特攻機の出撃拠点の無力化だった。同時に、九州への上陸の前準備、つまり本土決戦の序章という意味合いもあった。4月21日も、B29の編隊が九州を襲った。本来は敵戦闘機や攻撃機との空中戦が任務の343空も、大型爆撃機迎撃に当たった。

 第一国分を飛び立った林隊長は午前7時、桜島北の福山上空で北西に進むB29の11機編隊を発見した。攻撃するうち僚機とはぐれ、単機でB29に追いすがる。出水上空でようやく1機に黒煙を吐かせたが自らも被弾し、阿久根市の折口海岸付近に不時着した。地元住民が駆け付けて救助したものの、林隊長は命を落とした。

■戦況挽回は程遠く

 精鋭部隊とされた343空は一定の戦果を挙げはしたが、林隊長ら熟練パイロットが次々と戦死し、機体の喪失も続いた。同レベルの搭乗員の養成が追いつくはずもなく、機体の補充もない。戦況の挽回には程遠かった。4月25日に松山に戻り、同月末に長崎県の大村基地に移ったが、日を追うごとに消耗の度合いを深めていった。

 一方の米軍は3月に硫黄島(東京都)、6月には沖縄を奪取して飛行場を造り、戦闘機や攻撃機の出撃拠点を着々と増やした。パイロットの技量も機体の性能も格下でたやすく撃墜できる日本軍機との戦いは、米パイロットの間で「ターキー・シュート(七面鳥撃ち)」ともいわれた。

 日中戦争以降の日本の戦没者310万人のうち、9割以上が44年以降に命を落としたと推計されている。補給もない戦場で病死、飢え死にする兵士は日を追うごとに増えた。空襲による一般市民の死者も増加した。それでも日本の指導者は、45年8月15日まで絶望的な戦いをやめなかった。

 ●貴重な「遺産」保存へ動き

 阿久根市折口の海岸に不時着した林喜重隊長の紫電改は、終戦後も放置されたままだった。物資が乏しい時代とあって、機体の金属を取り外して持ち帰り、加工して使ったり、売却したりする住民は少なくなかったという。長い年月の間に機体は砂に埋もれ、姿が見えなくなるとともに市民の記憶も薄れていった。

 戦後80年の節目を機に、海底の紫電改は再び注目を浴びている。2024年4月、出水地域の市民グループ「紫電改・林大尉機を後世に遺(のこ)す会(現・北薩の戦争遺産を後世に遺す会)」が、ダイバーや研究者の協力で潜水調査し、海岸から約250メートルの海底でエンジンなど機首部分を確認した。25年4月の調査では各5メートルを超す両翼に加え、紫電改の特徴である2連の20ミリ機銃とみられる物体が残っていることも分かった。

 国内に現存する紫電改は愛媛県が1979(昭和54)年に引き揚げた1機のみで、肥本英輔会長(70)は阿久根沖の紫電改を「貴重な遺産」と強調する。現在は機体の引き揚げと保存の費用を募るクラウドファンディングを実施中だ。「北薩には戦争の歴史を伝える施設がない。この機体を展示し、戦争の記憶を残したい」と訴えている。

(2025年7月27日紙面掲載)

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