16歳の誕生日に「戦死して国に報いる。それが親孝行」 シドニー湾特攻で戦死の中馬隊員、生家で日記6冊見つかる

2025/08/12 11:00
中馬兼四隊員の日記を見るおいの知敷憲一郎さん、成子さん夫妻=6日、薩摩川内市東郷町鳥丸
中馬兼四隊員の日記を見るおいの知敷憲一郎さん、成子さん夫妻=6日、薩摩川内市東郷町鳥丸
 太平洋戦争初頭の1942(昭和17)年、日本海軍の特殊潜航艇によるオーストラリア・シドニー湾特別攻撃(特攻)で戦死した鹿児島県薩摩川内市出身の中馬兼四(けんし)隊員=当時(25)=の日記が、同市東郷町鳥丸の生家で見つかった。川内中学校(現川内高校)在学中から、出撃の前年までの6冊。「報国」の志を育み、精神の鍛錬に励んで「立派な軍人」を目指した姿が浮かび上がる。

 中馬隊員は42年5月31日、オーストラリア近海の潜水艦から2人乗りの潜水艇で出撃、シドニー湾内の連合国軍艦に魚雷攻撃を試みた。プロペラに防潜網が絡みついて身動きができなくなり、自爆した。

 日記は33、34、37、38、40、41年の6年分6冊。36年の分は川内歴史資料館が所蔵している。

 中学時代から目立つのは、命をささげて国の恩に報いる価値を迷いなく信じる記述だ。33年2月の16歳の誕生日には、生まれてから世の中に何も貢献しなかったとし、「立派な帝国軍人になり、戦死して国に報いる。それが親孝行にもなる」と決意する。

 34年の年頭には、外国の侵攻を国民が心配している状況を指摘。海に囲まれた日本の優位性を挙げ「恐るるに足らず」と記す。

 海軍兵学校時代の38年1月には、雑念が浮かんで精神統一できない時がある自分を恥じ、「薩州男児、起きよ」「鬼神を泣かしむるに足るまで頑張らん」と自らを奮い立たせる。

 日記は生家隣に住むおいの知敷憲一郎さん(74)、成子さん(74)夫妻が遺影や当時の新聞などとともに保管してきた。憲一郎さんは30年ほど前、中馬隊員の足跡をまとめた冊子「中馬魂」の制作に携わったことがある。「記録として残したかった。多くの人に存在を知ってほしい」と願っている。

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