真珠湾から引き揚げられ、広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校に展示されている特殊潜航艇(2014年撮影)
日本海軍の特殊潜航艇によるオーストラリア・シドニー湾急襲は、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃に続く、第2次の特別攻撃(特攻)だった。生還の望みが極めて薄いことを承知の上で突入した3艇6人の乗員の一人、中馬兼四(けんし)隊員は薩摩川内市出身。生家に残された日記には、国難とあれば喜んでその身をささげる殉国の志を育んだ少年・青年期の純粋な心情がつづられている。精神力を鍛え上げて臨んだのは、不完全な兵器による無謀な作戦だった。
当時の日本海軍の作戦思想の核にあったのは、軍艦同士が大砲を撃ち合う「艦隊決戦」だ。日露戦争の日本海海戦(1905年)でロシア艦隊に勝利した成功体験の再現を思い描いていた。
だが、対米戦争を想定すれば国力差に加え、ワシントン、ロンドン軍縮会議で主力艦の対米英比を6割に制限されており、劣勢は否めない。そこで構想されたのが「漸減(ぜんげん)作戦」だ。主力艦同士の決戦に先立って小規模の奇襲を繰り返し、敵艦隊を弱体化させる。具体策の一つとして考案されたのが、小型の潜水艇による攻撃だった。
特殊潜航艇は32年に設計着手し、40年に制式採用された。全長約24メートル、乗員2人。母艦で運ばれて敵艦近くで分離・発進し、装備した魚雷2本で攻撃する。存在を秘匿するため、軍内でも訓練用の標的を思わせる「甲標的」、「特型格納筒」と呼んだ。
乗員養成の開始は40年11月だ。海軍兵学校(海兵)第66期卒の中馬兼四隊員は、41年4月に始まった第2期講習で訓練を受けた。鹿児島市下荒田出身で海兵67期卒の横山正治隊員も一緒だった。
■困難を極めた操縦
特殊潜航艇の操縦の困難さは、真珠湾攻撃で米軍に捕まった酒巻和男隊員の手記「捕虜第一号」に詳しい。酒巻艇は潜水艦から分離した反動で、もんどり打って傾いた。モーターを発動すると海中から空中に跳ね上がった。手作業でバラスト(重り)を移動したり、タンクに注水したりして、航行状態になるまで2~3時間を要したという。
海兵卒の艇長が立ったまま潜望鏡をのぞき、艇長の足元に座った下士官が操縦する。艇内は狭く、2人ともほぼ身動きは取れない。
潜航が続けば酸素が薄くなるから、意識を保つのも難しい。何とか魚雷を放てたとしても、敵の報復攻撃をかいくぐって生還できる可能性はゼロに近い。体力や操縦技術はもちろん、粘り強い忍耐力と使命完遂の意志力を乗員に求める、不完全な兵器だった。
厳しい条件を満たした横山隊員は41年12月の真珠湾攻撃、中馬隊員は翌年5月のシドニー湾攻撃の要員に選ばれた。
■軍国教育への順応
真珠湾で戦死した横山隊員が「軍神」として報じられた後、横山隊員の母・タカさんに一通の手紙が届いた。差出人は中馬隊員。訓練中、2人が同じ下宿で兄弟のように過ごしたことや、横山隊員はにこにこ笑いながら遺髪と遺爪(いそう)、現金200円を託して出撃したことなどが記されていた。
中馬隊員は1917(大正6)年2月、当時の上東郷村鳥丸に生まれ、県立川内中学校(現川内高校)を卒業後、35年に海軍兵学校に入学した。
生家で確認された6年分の日記では、鹿児島出身の東郷平八郎元帥への尊敬が繰り返し語られる。教師や配属将校の講話があった日は、丁寧に要点をまとめて感想を記している。「精神修養と身体の鍛錬」を目的に早起きを心がけ、軍事教練にも真剣に取り組む。
軍国主義の教育環境に素直に順応し、殉国の覚悟を固めた日々がうかがえる。
■軍神扱いは控えめ
42年5月31日の日没後、シドニー湾に接近した伊27潜水艦から中馬艇は発進した。地元フェリーの航跡をたどって湾口を通過したが、その先の防潜網にスクリューが絡まり、豪哨戒艇に発見されて自爆を遂げた。
鹿児島日報(南日本新聞の前身)は42年6月6日付で中馬隊員らの特攻を「シドニー港内深く特殊潜航艇突入」の見出しで伝えた。同年10月7日付で初めて中馬隊員の名を報じ、「武神に輝く薩摩の誇り」とたたえた。
だが、真珠湾特攻での横山隊員の戦死を報じた同年3月7日付と比べれば、記事展開は控えめだ。横山隊員の代名詞のようになった「軍神」の言葉も見当たらない。同じ兵器、同様の作戦の戦死でも、戦意高揚や戦争継続の民意形成に効果的かどうかで扱いを変える。報道の自由を失い、大本営発表に操られた当時の新聞報道の姿勢だった。
日本海軍はシドニー湾と同時に、アフリカ大陸南東・マダガスカル島のディエゴスワレス港攻撃にも特殊潜航艇を投入した。その後も南太平洋ソロモン諸島・ガタルカナル島やフィリピンのセブ島などで出撃させたが、確実な戦果は多くない。戦況が悪化すると本土決戦に備え、体当たりの自爆攻撃を前提とした小型潜航艇の開発に力を注いでいった。