夫の戦死公報が届いた。遺骨を受け取りに行くと、兵隊さんに「泣くな」と一喝された 寺には3700を超える白木の箱が並んでいた

2025/08/18 10:00
夫・貞喜さんの遺影を手にする池田ナミさん=出水市野田町下名
夫・貞喜さんの遺影を手にする池田ナミさん=出水市野田町下名
■池田ナミさん(91)出水市野田町下名

 1944(昭和19)年6月2日、野田郷駅で陸軍一八部隊に入隊のため鹿児島市へ向かう35歳の夫、貞喜を見送った。野田村(当時)の全員が来たのでは、と思うほど大勢の人が小旗を振って万歳を繰り返した。夫とは言葉を交わすことなく、人垣の中で隠れるように見守っていた。発車のベルが鳴った時、列車の中の夫と一瞬だけ目が合った。それが最後の別れとなった。

 召集令状は5月25日ごろの真夜中に来た。野田の若い男性は、ほとんど召集されて残っていなかったため、「いずれは」と覚悟はできていた。夫も「待ちに待っていた」という感じだった。

 10歳年上の夫と結婚して3年。2歳と6カ月の2人の息子がいた。出征前、初めて夫が両手をついて「この子たちをたたいたりせず、しっかり育ててほしい」と頭を下げた。私には「見送りの時、泣くなよ」と言っただけで、優しい言葉はなかった。私も女学校で戦争教育を受けてきたので、泣くことはなかった。

 出征して1カ月もたたぬうち、徳之島沖で輸送船が沈没したといううわさを聞いた。船に荷物を積む夫の姿を見たという知人の話もあり、犠牲になったと直感した。程なくして、自宅の庭で青い火の玉が飛ぶのを15日ぐらい続けて見た。一緒に住む母には見えなかったという。長男は家の裏にある墓地で、白い服のお遍路さんの姿を見たと話していた。夫が最後の別れに来たのだろうか。一方で、徳之島のどこか片隅で生きているのでは、と心のどこかで期待していた。

 11月末に戦死公報が届き、12月初めに遺骨を受け取りに行った。西本願寺鹿児島別院には3700を超える白木の箱が並んでいた。箱を受け取る時、涙は出ていなかったはずだが、兵隊さんに「泣くな」と一喝されたことを覚えている。弔いの列に並ぶ大勢の兵隊を見て、「生きてる人はいいな」と恨めしかった。西鹿児島駅まで、白い箱を抱えた長い長い行列ができた。その夜は遺骨を抱いて寝た。近所の人の話では、長男は次男を抱いて裏庭で泣いていたという。

 でも、沈んでばかりはいられなかった。夫の言葉通り、子供2人を育てないといけないから。幸い、農家だったので食べ物には困らなかった。私の中の戦争は、夫が死んだ時点で終わり。終戦の時は「もっと早く終わっていれば、夫も生きていたのに」とだけ思った。

 息子2人は不平不満を言わなかったけど、父親がいない、大学にも出せないと、つらい思いをさせた。近所では、ちょっとしたことであらぬうわさを立てられた。戦争中は泣かなかったのに、戦後は悔しさで泣いてばかりいた。

 お見合いしてすぐに結婚した夫。自分の稲刈りが終わると、疲れていてもすぐに隣を手伝うような、気のいい人だった。夫が生きていれば、戦争さえなければ、違う人生を歩めたのに。こんな悲しい思いをするのは、私たちの世代で終わりにしてほしい、と切に願う。

(2012年8月2日付紙面掲載)

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