こんなちっぽけな川が薩摩と大隅の境目だった 鹿児島県伊佐市の市山川 かつては領有を巡り島津氏と菱刈氏が激しく争う

2025/09/10 14:30
右岸が大口側で薩摩、左岸が菱刈側で大隅=伊佐市の市山川
右岸が大口側で薩摩、左岸が菱刈側で大隅=伊佐市の市山川
 鹿児島県北部の伊佐市は薩摩か大隅か-。同市菱刈郷土資料館によると、市内を流れる市山川は境界の一部で、右岸が薩摩国、左岸は大隅国。戦国時代は川をはさんで菱刈氏と島津氏が幾度も争った激戦地でもあったという。

 同館によると、伊佐市域は古代(古墳~奈良時代)は菱刈郡の一部で大隅だった。平安時代末期ごろ、市山川などが境界となり、大口側は薩摩、菱刈側は大隅に分かれた。
 この両域は牛屎(くそ)氏、菱刈氏、相良氏、島津氏らが領有をめぐって争ったが、戦国時代に菱刈氏が相良氏の援助を受けて治めていた。

 1560年代後半から相良氏・菱刈氏と、島津氏の対立が激化。島津氏は67年11月、貴久、義久らを中心に菱刈氏の馬越城などを攻め、菱刈合戦が始まった。12月、川をはさんだ「西原川涯の戦い」で島津氏は敗退。事態を重く見た義久が68年1月、戦い上手な新納忠元を川近くにあった市山城主に据えた。

 激戦は69年に島津氏が両域を制圧するまで続き、四兄弟の末弟・家久も市山城を拠点とするほどの要所だった。同館の原田純一専門指導員(76)は「市山川は薩摩、大隅の境という行政上の区分であるだけでなく、伊佐市域を領有する戦いの重要な攻略ポイントだった」と説明する。

 現在の市山川流域には田園風景が広がり、凄惨(せいさん)な戦いが繰り広げられた面影はない。かつての国境も一つのまちになり、地域を隔ててきた役割は薄まっていると感じる。


■用語解説 市山川 

 2008年の合併前は旧大口市と旧菱刈町との境界の一部だった。県姶良・伊佐地域振興局によると、伊佐市とえびの市の境付近に源流があり、流域面積103.3キロ平方メートル、流路延長約8キロ。羽月川に合流する川内川の二次支川。

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