学徒出陣。入隊時は敗戦の色濃く…訓練は即席教育だった。同期1600人が亡くなった。私の名は特攻編成名簿の終戦5日後にあった

2025/09/22 10:00
資料を手に戦争体験を語る野村一明さん=指宿市湯の浜4丁目
資料を手に戦争体験を語る野村一明さん=指宿市湯の浜4丁目
■野村一明さん(89)指宿市湯の浜4丁目

 ソウル市にあった京城師範学校(現ソウル大学)の在学中に海軍飛行科予備学生(学徒出陣)に応募した。「将来は士官になれるし、飛行機の搭乗員へのあこがれもあった」。選抜された13期、約5千人の一員として1943(昭和18)年9月下旬、三重の航空隊に入隊し、訓練を開始した。

 入隊時には、日本は敗戦の色合いが濃かった。みんな「どうせ死ぬんだから」と負け戦を覚悟する一方、「祖国のため」との信念は持っていた。「制空権なくして勝利はなし」と言われ、多くの飛行機搭乗員を必要とし、訓練は厳しかった。

 特に海軍は、搭乗員を次々失い、長時間かけて訓練をする余裕はなかった。短時間で教育し、戦地に送り出さなければならなかった。

 4年かけて行う基礎教育は、2~4カ月。訓練機教程の飛行時間は、1期~12期は平均100時間以上だったが、13期は40時間足らずだった。「即席教育で、あれでは頭に入らなかった」。すぐに鉄拳が飛んだのを忘れない。

 任官する日が近づくと、多くは南方の最前線を志願した。みんな夢、希望があったはずだが、すべてを振り切り戦いを望んだ。

 訓練を始めて1年余り。同期が特攻で初めて亡くなった。「出撃を聞いたとき、もう突っ込んだのか」と驚いたのを覚えている。その後も次々と同期が、戦地を目指し命を落とした。「訓練を受けた職業軍人が先に行け」とビール瓶を投げて出撃した同期もいた。「訓練時間が短くて操縦が上手なはずはない。多くは特攻は成功せず、米軍に撃ち落とされたと思う」

 私は基地を転々としながら、訓練を重ねた。そして、出撃ということで福岡基地に結集させられた。「腹を決め、出撃に備えた」。そのときに終戦を迎えた。特攻編成の名簿では、終戦の5日後に名前があった。川内出身の同期は、終戦の2日前に飛び立ち死んだ。

 1600人余りの同期が亡くなった。ふるさとにあった指宿基地を発進した同期は39人が死亡した。

 青春のすべてを燃焼させた軍隊生活の思い出が、今でも脳裏に焼き付いている。生死を誓った亡き戦友は、私たちの前には戻ってこない。

 辛くも生き延びた私は、4~5年前から、小学校や中学校、各団体などで戦争体験を話す活動をしている。「死をむだにしてはいけない」との思いから始めた。純粋に国を愛し、国土の安泰を念じて逝った戦友、同期を思うと、戦争を二度とやってはいけない。

 戦没者が安心して眠れるよう、世代がかわっても悲惨な戦争体験を語り継ぎ、命の重さ、平和の大切さを訴えていきたい。

(2012年8月9日付紙面掲載)

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