内閣書記官房に抜てきされた42歳の大蔵官僚・迫水久常 「終戦内閣」の要は主戦派との決裂を回避し、終結の道筋を模索する

2025/09/22 12:00
迫水久常
迫水久常
 沖縄で住民を巻き込んだ凄惨(せいさん)な地上戦が繰り広げられていた1945(昭和20)年4月7日、鈴木貫太郎内閣が発足した。内閣書記官長に抜てきされたのは42歳の大蔵官僚で、本籍鹿児島市長田町の迫水久常。戦争終結の使命を胸中に秘めた鈴木首相の意をくみ、終戦内閣の要となった。一億総特攻を唱えて本土決戦に固執する軍の主戦派との決裂を辛くも回避し、ポツダム宣言受け入れという国家意思決定への歯車を回す一つの力となった。

 41(昭和16)年10月18日に首相に就任した陸軍大将・東條英機は、独裁的な戦時体制を強化していった。だが、戦線の拡大とともに米軍との戦力差が露呈する。44年7月には絶対国防圏として死守を誓っていたマリアナ諸島が陥落した。東條首相は退陣を余儀なくされ、その後約8カ月間の小磯国昭内閣を経て誕生したのが鈴木内閣だ。

 海軍予備役大将で枢密院議長だった鈴木はこの時77歳。高齢で耳が聞こえにくいことや、「軍人は政治に関与せざるべし」という明治天皇の言葉を理由に固辞した。それでも、天皇がじかに「政治に疎くてもよい。耳が遠くてもよいから、頼む」と説き伏せての大命降下=天皇が組閣を命じること=だった。

 鈴木を推したのは首相経験者らで構成し、新首相候補者や国家の重要問題について天皇に意見を具申した「重臣会議」だ。海軍出身の岡田啓介元首相は鈴木に終戦工作の望みを託しており、自身の娘婿、迫水久常・大蔵省銀行保険局長を内閣書記官長として送り込んだ。現在の内閣官房長官に相当する重要ポストだ。

■「バドリオ」になる

 首相を引き受けた鈴木は帰宅後、家族に「自分はバドリオになるぞ」と漏らしたという(「祖父・鈴木貫太郎」鈴木道子)。バドリオはイタリアの軍人で、連合国と休戦条約を結んだ人物。当時は「裏切り者」「売国奴」の代名詞でもあった。どんな反発を受けても戦争を終わらせる覚悟の表れだったのだろう。

 だが、政府部内に講和の意思があることが知られれば、国民の挙国一致体制がほころび、混乱の収拾がつかなくなる。皇国不敗を信念とする軍部の猛烈な反発は必至で、和平派は命の危険にさらされる。鈴木政権の崩壊は本土決戦突入を意味し、「一億総玉砕」が現実味を増す。

 鈴木首相は戦争の完遂を口にし、戦意をあおることもあった。その裏の真意を迫水は察し、戦争終結の道筋をひそかに模索した。

■内閣と陸軍の対立

 鈴木首相が就任後、迫水書記官長にまず命じたのは「本当の国力」の調査だった。鉄鋼、飛行機、船…。あらゆるものの生産は計画を大きく割り込んでいて、9月から先は立ち行かなくなる。戦争継続能力などない国力の現実を確信した鈴木首相は、陸軍、海軍、外務の3大臣と陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席する「最高戦争指導会議」の協議を本格化させた。

 45年5月7日にドイツが無条件降伏し、沖縄の戦況は日を追うごとに絶望的になっていく。一日も早く戦争をやめようという内閣側と、本土決戦に持ち込んで米軍に一矢報いた後に講和交渉を始めるべきとする陸軍側の主張は平行線が続いた。迫水が55年に、千葉県の道徳科学研究所で講演した内容をまとめた冊子「終戦の真相」から、当時の雰囲気がうかがえる。

 対立が激しくなった45年6月中旬以降、陸軍側は迫水を反戦論者として逮捕をちらつかせたり、召集状を出すぞと脅したりした。迫水への中傷を首相に吹き込んで内閣の分断を企てる動きもあった。書記官長就任時は17貫(約63キロ)あった体重は14貫(約53キロ)を切ったという。

■「聖断」をお膳立て

 沖縄戦は6月23日に組織的な戦闘が終結した。7月26日、ポツダム宣言が発表された。8月6日に広島に原爆が投下され、8日にはソ連が対日宣戦布告に踏み切る。

 9日午前10時半、最高戦争指導会議が始まった。相変わらずポツダム宣言受諾と本土決戦論の対立が続いた。途中で長崎への原爆投下の報が入っても、膠着(こうちゃく)状況は変わらなかった。

 その後の閣議でも結論が出ない。休憩中、迫水は鈴木首相から「どうしようか」と相談を受けた。「陛下の御聖断を得て事を決するほかはございますまい」。首相は「実は自分もそう考え、今朝拝謁(はいえつ)したときに、いよいよの場合はお助けください、とお願いしてきた」と明かした。

 同日午後11時から御前会議が開かれた。天皇の前で日置市出身の東郷茂徳外相がポツダム宣言の無条件受け入れの立場を明確にした。出席者がそれぞれの立場で賛否を示した後、おもむろに立ち上がった鈴木首相が発言した。

 「意見はまとまりません。ここに陛下のおぼしめしをおうかがいして、私どもの意思を決定したいと思います」。対立する両論を示し、天皇に最終判断を仰ぐ。前代未聞の展開だ。天皇は「それならば、私の意見を述べよう」と応じ、「外務大臣に同意である」と明言した。

 戦後のドキュメンタリーや映画などでよく描かれる、ポツダム宣言受け入れ決定の瞬間だ。鈴木首相や迫水に限らず、当時のいろいろな人がそれぞれの立場で動き、ようやく実現した場面だった。

 さこみず・ひさつね(1902~77年) 東京帝国大学法学部卒業後、26年に大蔵省入り。妻・万亀の父岡田啓介首相の秘書官を務めていた36年、二・二六事件に巻き込まれた。鈴木貫太郎内閣の書記官長として、終戦詔書の原文を書いたとされる。戦後の公職追放後、52年の衆院選で旧鹿児島第1区から立候補し当選。参院議員(全国区)に転じた。経済企画庁長官、郵政大臣、自民党鹿児島県連会長などを歴任。

■ゆかりの地、大崎・菱田小に遺品

 大崎町の菱田小学校に迫水久常・元内閣書記官長の子ども時代のランドセルや作文、図画などがこのほど届いた。送り主は元書記官長の次男で、東京都世田谷区に住む迫水朗生さん(84)。迫水家ゆかりの地である大崎で、子どもたちの教育に何らかの形で役立つのであればと寄託した。

 きっかけは菱田小の校長室に以前から飾られていた揮毫(きごう)。「よく学びよく遊ぶ」と書いてあり、「郵政大臣 迫水久常」と署名がある。赴任2年目の平山淳郎校長(58)が調べると、1961年の校舎改築の際に書かれたことが分かった。

 迫水家の祖先は16~17世紀に大崎郷の地頭を務めた迫水伊予介久光で、その縁で書が贈られたらしい。2015年の映画「日本のいちばん長い日」で俳優の堤真一さんが演じた迫水書記官長が印象に残っていた平山校長は親族を探し当て、先月、東京の自宅を訪ねた。

 対応した朗生さんは1941年生まれで、戦時中の父の記憶はほぼない。興味があるならと、遺品の寄託を申し出たという。

 作文類は尋常小学校、東京第一中学校、東京第一高等学校時代のもの。小学校卒業前後の作文では戦争について、「非文明のごとくなれども戦争ごとに文明は進歩し、戦争なければ人は怠惰に流れる」と論じている。明治、大正、昭和初期の空気をうかがわせる。朗生さんから見た父親は記憶力抜群で、いつも身なりを整えている真面目な人物だった。「時代を物語る資料として生かされるのならうれしい」と語る。

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