10月から医療法人徳洲会に運営を委託する公立種子島病院=南種子町中之上
鹿児島県南種子町と中種子町が設置する公立種子島病院(南種子町中之上)は10月から、医療法人徳洲会(本部・大阪市)を指定管理者として、運営を委託する。開院当初、最大7人いた常勤医が2024年度に1人まで減ったため、医師の安定的な確保を狙う。常勤医不足の背景を探ると、病院設置者の南種子町長が代わるたびに確保方針が転換され、派遣元との関係をうまく築けなかった実態が浮かぶ。
公立病院は前身の南種子町立病院(同町中之下)の時代から、県を通じて招く自治医科大学(栃木県)出身医師と、鹿児島大学病院の派遣に主に頼っていた。現在地に移転・開院した04年度までに、派遣元は鹿大病院にほぼ一本化。当時の常勤医は5人で、同年度中に7人まで増え、種子島南部の中核病院として万全のスタートを切った。
当時町長だった柳田長谷男氏は07年4月の町長選に出馬せず、元助役の名越修氏=故人=が初当選し、状況が変わる。名越氏は派遣元について、鹿大病院から、自治医科大出身者でつくる「地域医療振興協会」への切り替えを模索した。当時の町幹部は「(協会の方が)より医師を確保できると踏んだのだろう」と振り返る。だが、常勤医の派遣に至らなかった。
一方で名越氏は08年、鹿大病院から派遣され、契約更新が当然視されていた院長を事実上解任。後任を確保しないままの強行策だとして、町内には解職請求(リコール)を目指す動きもあった。鹿大病院からの派遣は同年でストップした。
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11年の町長選で名越氏は敗れ、元県議の梶原弘徳氏が当選。「病院を立て直す」と掲げた梶原氏は、鹿大病院からの派遣へ方針を戻した。だが「一度切られた形」(関係者)と相手方の反応は芳しくなかった。
当時、鹿大病院側との折衝に当たった町職員は「『どの面を下げて来たのか』と言わんばかりの反応だった」。島内の民間病院を経由して非常勤医が送られることはあったが、直接の派遣は再開されなかった。
頼る相手のない公立病院は、医師の“一本釣り”に出た。町長や職員らが全国を訪ね歩き、医師と個別に交渉。12~14年度は最大4人を確保した。
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15年の町長選は、名越氏が梶原氏を破って返り咲きを果たし、再び協会との連携を目指した。だが、協会からの派遣は実現せず、19年の町長選で名越氏は、梶原町政で副町長だった小園裕康氏に敗れた。
小園氏の当選後、公立病院側は鹿大病院などへ派遣を打診し続けたが、どこも医師が不足していることなどから事態は好転しなかった。24年10月、院長を務めていた徳永正朝医師が急逝。常勤医が1人となり、入院患者数の制限や救急外来停止に追い込まれた。公立病院側は医師確保を喫緊の課題と捉え、同月中に徳洲会に協力を打診した。
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「公立病院は政争の具にされてきた」。25年6月、徳洲会への運営委託を決める病院組合議会臨時会で、小園町長は語気を強めた。「町長選のたびに振り回され、今なお影響を及ぼしている。過ちを繰り返してはいけない」
今回の指定管理は40年3月まで14年6カ月の契約だ。離島医療の実績があり、豊富な人材を抱える徳洲会への運営委託で「安定的な体制となり、これまで以上に質の高い医療が提供される」と小園町長。並行して鹿大病院や医師会とも良好な関係を築き、持続可能な病院経営を目指す。
梶原氏は「地域医療は住民のためにあり、政治の混乱が持ち込まれてはいけない。住民は安定を望んでいる」と話し、公立病院の新たな門出に期待を寄せた。