「つらい体験の反動か、この40年間は薬いらずで健康に過ごせた」と話す蓑田榮さん=錦江町
■蓑田榮さん(90)錦江町馬場
1943(昭和18)年に鹿児島歩兵第45連隊に入隊。同年8月に初年兵1200人の一員として、ソロモン諸島のブーゲンビル島(パプアニューギニア)に派遣された。この年の4月に連合艦隊の山本五十六司令長官が搭乗機を撃墜され戦死して以来、戦況は悪化し、11月には米軍が上陸、終戦まで戦闘が続いた。初年兵は島に無事到着したが、この最後の補充1200人のうち、生還したのは自分1人だけだったと聞いている。
戦争は最前線で戦うばかりが戦争ではない。配属された中隊で警備を命ぜられ、最後まで人を殺すことはなかったが、現地民の襲撃や爆撃にさらされ、マラリア、食糧不足、炎熱の太陽など天も地も人も敵であった。
宿舎が爆撃で吹き飛ばされた時は、自分は食糧探しに出掛けていたため難を逃れたが、帰ってみると遺体が並べられ、たくさんの負傷兵がうめいていた。1人は右太ももを、1人は左腕をやられ、軍医が兵隊の加勢をもらい、のこぎりで切断していた。「あいたよー、助けてくれー」と叫ぶ声が響き、全く生き地獄のようだった。
食糧不足も地獄。夢遊病者のようによろめきながら食べ物を求めて森をさまよった。皆やせ細り、目だけがギラギラしていた。ヘビや野ネズミはもちろん、クモも焼いて食べた。
45年になると現地民に襲撃される事態に。隣の宿舎に、かねてから友好的だった現地民40人ほどが豚1頭とバナナ、パイナップルなどの土産持参であいさつに来た。何の疑いも持たず上がってもらい、1時間ほど談笑したり、食べたりしていると突如、山の方で鐘が鳴った。と同時に、そこにいた現地民が一斉に飛びかかってきた。さらに100人ほどがこん棒を持って合流し、丸腰の兵隊は打たれ、たたかれ大変な被害を受けた。銃も剣もすべて奪われた。
司令部からは「現地民を見たら女、子供でも皆殺しにせよ」との命令が出された。食糧探しに出た8人が現地民に襲撃され、全滅したこともあった。
終戦後は隣の島で捕虜として6カ月間、強制労働に当たらされた。手のひらのようなパン一切れで、朝7時から夜7時まで、道路づくりに桟橋づくり、ヤシや山の木を切り開く作業に従事させられた。特に敵艦から海に落とされた、砂糖の入ったドラム缶を泳ぎながら陸に運び上げる作業は重労働だった。「敗戦国だから、言いなりになるしかない」とひたすら我慢し耐え忍んだ。
最後はマラリアにかかり、生死の境をさまよったが、そのおかげで復員船に最初に乗れたのは、幸運というべきか。負傷兵と病人は優先されたのだ。ある晩、甲板で海を見つめる2人の負傷兵に再会した。なんと、脚や腕を切断したあの2人だった。生きて帰れたと、3人で涙にむせんだ。
人の世の運命はほんとに紙一重で、思い出すとぞっとすることばかり。恒久平和を願い、感謝の気持ちを持ち、残された人生を大切に生きたい。
(2012年8月15日付紙面掲載)