宮崎神宮近くの高台にそびえる石塔。正面に「八紘一宇」の文字が刻まれている=宮崎市の平和台公園
宮崎市の平和台公園の高台に、高さ36.4メートルの石塔がそびえている。1940(昭和15)年に「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」として完成し、現在は「平和の塔」と呼ばれる。正面に刻まれた「八紘一宇(はっこういちう)」は日本書紀に由来し、「全世界を覆って一つの家にする」といった意味だ。アジア・太平洋戦争中、皇国日本を中心に「大東亜共栄圏」を建設するという国家的理想を表す標語として盛んに用いられた。この戦争の大義に多くの国民が共感した時代の空気を物語る歴史遺産といえる。
天皇家の祖先の古里は鹿児島県、宮崎県のどちらか。明治時代の初めから、両県の間で綱引きが繰り広げられた。
日本書紀の国づくり神話をめぐる論争で、確かな史料に基づく学術研究で明確な結論が出るわけもなかった。それでも明治政府は1874(明治7)年、初代天皇とされる神武天皇の曽祖父(そうそふ)ニニギノミコト、祖父ヒコホホデミノミコト、父ウガヤフキアエズノミコトの各陵墓を鹿児島県内に治定(じじょう)した。それぞれ薩摩川内市の可愛山陵、霧島市の高屋山陵、鹿屋市の吾平山陵は「神代三陵」と呼ばれ、現在も宮内庁が管理する。
陵墓の治定後も論争の火種はくすぶり、1930年代に再燃した。神武天皇の即位を元年とする皇紀2600年=1940(昭和15)年=が近づいたからだ。
35年10月、内閣に「紀元二千六百年祝典準備委員会」が設置された。国を挙げて奉祝し、神代から続く万世一系の皇統の威信を高めたい。国民の天皇への忠孝を高揚させる国家主義的な意図も絡み、両県はそれぞれ天皇家とのゆかりを主張し合った。
当時の文部省は神武天皇聖蹟(せいせき)調査委員会を設置して研究したが、天皇の古里の特定は避けた。宮崎県は独自事業として巨大モニュメントの建設に踏み切り、「皇祖発祥の地」の座を引き寄せた。
■継戦意欲保つ標語
建設を主導したのは37年に就任した相川勝六知事だ。7月7日に北京郊外で盧溝橋(ろこうきょう)事件があり、日中戦争の端緒が開かれた直後の着任だった。翌年8月、神武天皇ゆかりの地に日本一高い塔を造り、「八紘一宇」の言葉を刻む構想を打ち出し、40年に完成させた。
「八紘一宇」は日蓮(にちれん)宗の宗教家田中智学が大正時代につくった言葉だ。日本書紀には、神武天皇は生まれ育った南九州から旅立って奈良の橿原に都を構えた際、「八紘を掩(おお)いて宇(いえ)にせむ(あらゆる地域を覆って一つの家にする)」と述べたとある。この精神に沿って日本が世界を道義的に統一すべきだと意味づけした。
日本はこの時期、「暴支膺懲(ぼうしようちょう=横暴な支那を懲らしめよ)」を合言葉に中国大陸に進出したが、中国は屈服せず、国民の継戦意欲は揺らいでいた。そこで浮上した言葉が「八紘一宇」だった。
東アジアを搾取する欧米列強を追い出し、日本以外の国や民族を天皇の下に統一する。「大東亜共栄圏」建設という戦争の目的を端的に表現している。40年7月に発足した第2次近衛文麿内閣は「基本国策要綱」で「八紘一宇」を国是と明言した。同年9月、日独伊三国同盟成立後の天皇の詔書にも「大義を八紘に宣揚し坤輿(こんよ=世界)を一宇たらしむる」と反映された。
神話の物語と現実の国策が結合し、融合しながら浸透していった。
■各地の石を基壇に
塔の基壇は色や材質の異なる切石で組まれている。よく見ると、石の一つ一つに国内外の地名や軍の部隊名の刻印がある。県が陸軍省や大阪毎日新聞などの協力を得ながら「世界の各地、御稜威(みいつ=天皇の威光)の及ぶところ」から集めた。
中には彫刻が施された石材もある。塔の正面に向かって右手壁面の麒麟(きりん)とハスの花が浮き彫りになった石には、「南京日本居留民会」と刻まれている。
これらの石の来歴を調べ上げたのが、91年に発足した地元の市民団体「『八紘一宇』の塔を考える会」だ。基壇は1879個の石で築かれ、1485個に刻印があることを明らかにした。93~94年にはメンバーが韓国や中国に足を運び、石のルーツをたどった。
だが、現地で石を贈った記録や証言とは出合えなかった。「中支志賀中山隊」と刻印された石は、特徴的な唐草文様から、当時の上海市政府庁舎から切り出されたことが分かった。
■変遷した意味づけ
終戦後の45年12月15日に連合国最高総司令部(GHQ)が出した「神道指令」で、国家神道、軍国主義、国家主義と結び付く用語は追放された。石塔から「八紘一宇」の文字は撤去され、「平和の塔」と呼ばれるようになった。
だが、戦後復興後のレジャーブームで状況は再び一変する。石塔の観光資源としての価値に着目した観光業者らの働き掛けで、県は戦後20年たった65年に文字を復活させた。
「塔を考える会」代表の西都市、追立敏弘さん(69)=鹿児島市喜入出身=らは、71年に県が設置した由来碑に疑問を呈し続けている。碑文が「八紘一宇の文字が永遠の平和を祈念して刻みこまれている」とし、基壇の石は「友好諸国から寄せられた切石」と説明しているからだ。
武力によるアジア支配を正当化する思想を体現するモニュメントとして、塔が社会の空気を醸成する役割を果たした事実は消えない。追立さんは「当時の侵略思想や軍の行動を知る戦争遺跡としての理解が広まってほしい」と願っている。
■志布志には「神州不滅の碑」
アジア・太平洋戦争を思想的、精神的に支えた言葉を刻んだ碑は、鹿児島県内にも現存する。志布志市松山の松山城跡にある「神州不滅の碑」もその一つだ。
日本陸軍は1944(昭和19)年4月、第86師団(積兵団)を編成し、1万3000人余りの将兵を大隅半島と宮崎県南部に配置した。本土決戦になれば米軍は志布志湾から上陸してくると予想されたからだ。
45年8月14日のポツダム宣言受諾で決戦は回避され、師団は解散することになった。司令部があった松山村(志布志市松山)には8月30日、所属する四つの歩兵連隊長らが集まり、それぞれの連隊旗を焼いた。
その現場に芳仲和太郎師団長が残したのが、この石碑だ。志布志市誌によると、積兵団の工兵が近くの菱田川から運んだ縦4.6メートル、幅1.1メートルの石に「神州不滅」の文字が刻まれ、同年9月15日に除幕式があったという。
「神州不滅」の言葉は、特攻隊員の残した遺書や手紙でも散見される。「神の国が滅ぶことはない」といった意味合いだ。神代から続く万世一系の天皇を頂点とする日本は特別な国である-との皇国史観を色濃く象徴している。