ニューギニアに出征した父から聞いた話。日本は1つの蚊帳に十数人で寝泊まり。米軍は個人用を使っていた。父はマラリアで生死をさまよった【証言 語り継ぐ戦争】

2025/10/23 14:30
南方に出征した父が、現地で譲り受け育てたカユプテの木と宮崎泰さん=指宿市開聞川尻
南方に出征した父が、現地で譲り受け育てたカユプテの木と宮崎泰さん=指宿市開聞川尻
■宮崎泰さん(86)鹿児島県指宿市開門川尻

 1939(昭和14)年に東京都で生まれた。父は41年、鹿児島県の開聞岳の麓で天然香料の原料となるローズ・センテッド・ゼラニウムを栽培する農場の責任者となり、川尻集落に単身赴任。母と私は2年後に移り住んだ。

 43年には農場で18キロの精油の抽出に成功し、本場フランス製にも劣らない品質で増産計画も立てられていたという。だが第2次世界大戦が激化し、計画は結局中断。父は召集され、南方の激戦地・パプアニューギニアへと出征していった。

 私たちは川尻集落で父の帰りを待った。45年夏ごろになると、知覧方面から飛んでくる飛行機を頻繁に目にした。当時小学1年生の私が友人と川遊びをしていると、頭上すれすれを低空飛行し、開聞岳の回りを1、2周ほどしてから南の海へと飛び去っていった。

 飛行機からは日の丸の鉢巻きをしたお兄ちゃんがほほ笑みかけ、左右の翼を振りながら飛んでいった。私たちは「ばんざーい」と叫び、手を振り見送った。彼らが特攻隊員で、戦死したと聞かされたのは戦後しばらくしてから。一人一人の笑顔が脳裏に浮かび、悲しくて涙が止まらなかった。

 大きな空襲も経験した。防空壕(ごう)に避難して外をうかがっていると、ごう音を響かせ飛んできた敵機が、道路を挟んで片側の集落に機銃掃射を仕掛けていった。終わって外に出てみると、屋内にかがみ込んだ状態で亡くなっている女性がいて恐ろしくなった。

 米軍の飛行機が開聞岳に不時着したこともあった。好奇心旺盛な子どもたちが近寄ろうとしたら、大人に止められた。遠くから少しだけ見えた飛行機は、日本のものよりもずっと大きかった。不時着した米兵がその後、どうなったのかは分からない。

 8月15日、私たちは理由も分からないまま小学校に集められた。大人たちはラジオから流れる声を聞いてうつむき、ひざまずいて泣いている人もいた。後に「日本は負けた」と聞かされ、初めて状況を理解した。

 南方から父が帰ってきたのは終戦から2年後。母と山川駅まで迎えにいくと、軍服姿の父が駆け寄ってきた。その姿はあまりにも痩せ細り、子どもながらに衝撃を受けた。父が出征した年に生まれた弟は寄りつかず、泣きじゃくっていた。

 父は復員後も、夏になると突然「寒い、寒い」と言って震え出す時があった。「毛布を掛けろ、もっと掛けろ」とわめくので、私と母は家中の毛布や布団を集めて掛けた。それでも震えは止まらず「父が死んでしまうのではないか」と怖かった。1週間ほどたつと、何事もなかったかのようにいつもの父に戻った。

 後から聞いた話で、父は戦地でマラリアにかかり、生死をさまよう体験をしたらしい。現地では十数人ほどが入る大きな蚊帳で寝泊まりしていたが、誰かが用を足しに出入りする度に蚊の大群も入り込み、体中を刺されたのだという。

 ニューギニアには米軍も滞在しており、向こうはそれぞれ個人用の蚊帳を使っていた。父たちが夜襲を掛けようと地面にはいつくばって近づくと、ちょうどその高さに設置された自動機関銃で多くの仲間が命を落としたことも聞いた。

 父は引き揚げる際、仲良くなった現地の人たちから、精油が取れるカユプテやレモンユーカリ、ティートゥリーの種子をたくさんもらってきた。戦後、香料の生産を再開してからも、農場の隅でそれらを大切に育てていた。父は開聞に国内初のハーブ園を開き、96年に90歳で亡くなった。

 香料園には、当時の種子から育てたレモンユーカリが今もある。カユプテは台風の被害を受けたが、残った2本を挿し木で増やそうとしている。何年かかるか分からないが、再び精油ができる日を心待ちにしている。

(2025年10月23日付紙面掲載)

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