1945年6月17日の夜。学徒動員先の知覧から鹿児島市街地方面の空が真っ赤に染まるのを見た。学びや「一中」はがれきと化した。無残な姿に涙をこらえられなかった【証言 語り継ぐ戦争】

2025/11/02 17:00
空襲体験について語る川畑弘見さん=垂水市田神
空襲体験について語る川畑弘見さん=垂水市田神
■川畑弘見さん(95)鹿児島県垂水市下宮町=2回続きの㊤

 1930(昭和5)年に垂水市で生まれ、43年に鹿児島市の県立第一鹿児島中学校(一中)に進学した。一中の教師からは、何度か熊本の陸軍幼年学校へ進むよう言われた。同じ学年からも15人ほどが行ったのではないか。「兵隊さんに行って死ぬのは当たり前だ」と思っていた。

 最初の1年間はちゃんと授業があった。敵性言語として排斥されていたはずの英語の授業も受けた記憶がある。2年生になると、ほとんど授業はなくなり、空襲への対策で照国神社周辺の旅館街の解体に駆り出された。

 3年生になってすぐの5月、学徒動員で知覧町(現南九州市)に行った。本土決戦のために吹上浜の防備に当たった静岡の野戦重砲隊が連れてきた軍馬の世話を主にした。

 飼料用の草を刈っていたある日、3機で編隊を組んで飛んできた米軍の爆撃機ロッキードに見つかった。こちらに向かって急降下し、銃撃を始めた。仲間と共に急いで杉林の中に逃げ込んで、奇跡的に全員が無事だった。夕方の点呼の際、兵士から「攻撃を受けた時の素早い行動には驚いた」と褒められた。

 6月17日、夕飯を食べている時に、鹿児島市街地方面の空が真っ赤に染まっているのを見た。鹿児島大空襲だった。翌朝、一中の配属将校だった陸軍大佐が知覧にやってきた。空襲を受けたのだろう。いつもの立派な身なりとは違い、軍刀を包む革は焦げ、足元は草履だった。彼は市内の様子を語り「中学校は全焼し、プールしか残っていない」と話した。それを聞いてとても腹が立った。仲間たちも「鬼畜米英を討たなければ」と怒りの声を上げた。

 鹿児島市内に家族がいる生徒も多く、2日後には全員が帰省することになった。知覧から喜入駅まで徒歩で移動し、そこから列車で西鹿児島駅に向かった。

 西駅に降りた瞬間、がくぜんとした。市街地は焦土と化し、千日町の高島屋と金生町の山形屋だけがぽつんと見えた。「どうしてこんなことになったのか」と惨めな気持ちになった。無力感とも罪悪感ともいえぬ感情も湧き上がってきた。

 同級生と共に、焼けてしまったと聞いた中学校の校舎も見に行った。がれきとなった学びやの無残な姿を見て、全員、涙をこらえられなかった。「お互いに体を大事にしよう」と励まし合いながら別れた。次にいつ会えるのか、生きて会えるのかさえも分からなかった。

 空襲の後も、しばらくは教師の姉と共に市内で暮らした。空襲警報が鳴り響いては防空壕に逃げるのが日課のようになっていた。古里の垂水の方がまだ安全だろう、と帰省を決めた。だが、避難したはずの垂水でも空襲に遭うことになる。

(2025年10月29日付紙面掲載)

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